1967年の都知事選挙と革新統一戦線
革新統一戦線によって政治変革をめざそうという動きは、1967年の一斉地方選挙における東京都知事選挙の勝利が実現したことから始まりました。
この都知事選挙の共闘は、1963年以来共産党と社会党の共闘が途絶えていた状況のなかで、両党が双方の政策をもとにねばり強く話し合い、日本共産党・宮本顕治書記長、社会党・成田知巳書記長が政策協定、組織協定で一致し、社共両党を軸に、労組、民主団体、個人が参加する「明るい革新都政をつくる会」が母体となった幅広い共同によって生み出されました。
都知事選挙の勝利をきっかけにして、全国の自治体首長選挙で、この方式を範とした選挙共闘が成立し、勝利を勝ち取った革新自治体が次々に生まれました。1977年3月には全国の都道府県、市町村のうち212団体が革新自治体となり、そこに住む住民は総人口の43%を超えるようになりました。革新自治体は、老人医療、乳幼児医療の無料化、無担保・無保証人融資、公害企業の規制等の住民本位の施策によって国民的な支持が広がり、国政での政治革新をめざそうという機運も高まりつつありました。
共産党と社会党の間では、1976年4月、1977年6月、1978年6月の三度にわたる党首会談で共同を広げる努力が行われ、「長期の展望に立った統一戦線」の結集のための協議を続けることを約束しました。
強まる逆流と「社公合意」
しかし、日米支配勢力、とくに財界と自民党、追随政党が、それを妨げる動きを強め、日経連の桜田会長をはじめ財界人は「保革連合政権」待望論を唱えました。当時国会に議席を持っていた主要政党のうち、民社党は「準与党」宣言をし、公明党は共産党を「反憲法政党」呼ばわりしつつ、自称「憲法擁護政党」のみによる連合政権を唱えました。
この間、社会党は、民社党や公明党に足元を揺さぶられながら全野党共闘論と革新共闘論の間で動揺を繰り返しましたが、最終的に1980年1月、公明党との間で「連合政権についての合意」(社公合意)を結ぶに至りました。この合意は、日米安保条約存続の容認、自衛隊容認を基本として「日本共産党排除」を明記したものであり、都知事選の勝利をきっかけとして強まっていた革新統一の流れを遮断し、国民の期待を裏切るものでした。
日本共産党、革新懇の結成を提唱
こうした逆流に対して日本共産党は、1980年2月に開かれた第15回党大会において、「日本の民主的再生をねがう民主的諸団体、民主的著名人に呼びかけ、革新統一を語り展望し、そのために共同して行動する自由な連絡、共同の場として革新統一懇談会を全国的、地方的に組織する」ことを提唱しました。これは、「社公合意」によって革新統一の展望が壊されたもとでも、待機主義に陥ることなく、一時的には政党は共産党のみであっても、新たな革新統一戦線の構築をめざそうと呼びかけたものでした。
1980年2月の提唱に基づいて、日本共産党は、1980年5月13日に中央段階で「革新統一へ今なにをすべきか」という懇談会を開催しました。これを受けて、全国の各地方で地域ごとの状況と伝統を踏まえる形で革新統一をめざす動きが始まりました。トップを切ったのは1979年の府知事選挙で黒田了一知事の革新府政を自社公民など「六党軍団」によって奪われ壊された大阪府の革新の人士と団体でした。1980年5月に大阪府革新懇を結成し、1981年2月には全国交流会を呼びかけました。
宮城での革新懇結成の経緯(1980年)
宮城でも、革新懇の結成に向かう動きは、紆余曲折を経ながら始まりました
当時、宮城には、1977年の参院選宮城地方区での社共共闘を実現するために熱心に両党に働きかけるとともに、県労評や平和委員会など諸団体にも働きかけて実現させた、東北学院大助教授の川端純四郎氏と浅見定雄氏、弁護士の斎藤忠昭氏などの知識人グループがありました。このグループの人たちは、1980年の参院選挙でも再度の社共共闘の要請に向かおうとしていました。
社公合意の2年ほど前から、一時的中断や衣替えをしながらも何とか続いていた安保廃棄をめざす共闘は、全国の半分ぐらいの都道府県で解散状態になっていましたが、宮城では、安保破棄・諸要求貫徹宮城県実行委員会が、6・23(日米安保自然成立の日)、10・21(国際反戦デー)の統一行動に取り組むなど、社会党、共産党、労組、民主団体の共闘がなんとか形を維持していました。川端、斎藤、浅見氏らのグループは、宮城の共闘の特徴もよく知っていて、1980年参院選でも社共共闘を実現することができれば、全国段階の社共共闘に再びつながる可能性があるのではないかという思いをもっていたのです。
社会党が選挙共闘を拒否、衆参同時選挙へ
一方、日本共産党宮城県委員会では本田勝利氏が、1977年参院選挙で統一のために役割を果たした斎藤、川端の両氏と面会し、革新懇を結成するために協力していただきたいと申し入れました。
本田氏の申し入れの趣旨は、「社公合意は、何の話し合いもなく長期展望での統一戦線についての1977年の合意を破棄したものだ。したがって、党大会の提起している革新懇を宮城でも結成するためには、前回の参院選挙の共闘実現に役割を果たした知識人、文化人の方たちに中心的役割を果たしていただいて、社会党が参加しなくとも統一戦線の結成に向かう運動をつくりたい」ということでした。
それに対して、斎藤、川端の両氏は、「市民運動の立場と政党の論理は違うのだから、参院選を前にして社会党と共産党の選挙共闘を要請し実現するための活動を続けたい」という意見でした。結論としては、斎藤、川端両氏が同じ考えの人たちに呼びかけながら両党に申し入れを行い、その結果で判断したいということになりました。
両氏は、浅見定雄氏とともに、黒松教会牧師の蓮見和男氏、劇作家の作間謙二郎氏に呼びかけて、社共両党に参院地方区選挙での候補者統一、選挙共闘を申し入れる活動を開始しました。斎藤、川端氏たちの申し入れに対し、共産党宮城県委員会は共闘の協議に応じる用意があるという回答でしたが、社会党県本部は党の中央執行委員会の方針で「共産党との共闘はしない」となっているので応じられない、という回答でした。
当時、社会党が大平正芳内閣不信任案を5月17日に提出したところ、前年末の首班指名をめぐる自民党内の抗争が尾を引いていたことによって福田赳夫派と三木武夫派が大量欠席したために、可決されました。これに対して大平首相が衆院解散を強行し、6月22日を投票日として、戦後初の衆参同日選挙が行われました。選挙の結果は全国で衆参とも自民党の圧勝でした。宮城では参院地方区自民1、衆院1・2区計で自民6、社会2、公明1の当選でした。
革新懇結成に向けて「よびかけ」発出 →「よびかけ」を見る
同日選挙が終わってから、革新懇の結成の必要について改めて話し合いが行われました。斎藤、川端、浅見、蓮見、作間の5氏に宮城子どもを守る会会長の伊達たまき氏に加わってもらって、宮城県に革新統一戦線をめざす組織を立ち上げる意義とその状況についての討議が行われました。
討議の結果、「宮城県には安保共闘の活動が続いているので、革新勢力の共闘の条件が失われたという前提のもとに統一戦線組織をつくるというのではなく、宮城特有の共闘の条件をできる限り活かすやり方で活動を進めるべきだ」という見解で一致しました。それらの意見を尊重し、会の名称は全国に倣っての「革新統一懇談会」ではなく、「革新統一を考える会」とすることになり、結成日を9月26日と決めて、6氏の連名で「よびかけ」を発出しました。社会党の参院選候補となった高橋治氏が議長を務めていた宮城県労働組合評議会やその傘下の労働組合にも広く呼びかけ、革新・民主の人士にも広く呼びかけました。
「よびかけ」は、「人間の尊厳と民主主義を旗印にたくさんのみなさんの力をあつめ、…ひたすら論争するのではなく、ひたすら団結していく会合にしたいものと思います。」と政治革新と革新統一戦線に向かっての共同の話し合いを大切にすることを重点に訴えました。
結成総会開催、初期の役員
結成総会は、9月26日に仙台市民会館地下展示ホールを会場に開催しました。「よびかけ」に応えて参加・賛同したのは、労組と民主団体の41組織、個人81人の合計122団体・個人でした。結成総会には、統一労組懇傘下の労組をはじめ、新日本婦人の会や平和委員会の代表、国鉄労組県支部委員長長田貞雄氏や、元社会党県本部委員長で元県会議員の三春重雄氏、国鉄労組仙台地本執行委員の相沢亀吉氏、東北放送労組代表、河北新報労組代表など61名が参加しました。個人も団体関係者も広範な顔ぶれでした。
結成総会では、「よびかけ」人となった斎藤、川端、浅見、蓮見、伊達、作間の6氏に、詩人の庄司直人氏、中国文学者の三島孚滋雄氏、統一労組懇議長の小野寺啓一氏、元県労評議長・作家の加藤秀造氏の4氏を加えて、合計10人の世話人を選び、世話人会の代表格は作間謙二郎氏が務めることになりました。さらに顧問として、元社会党県本部委員長・三春重雄氏、日本共産党県委員長・大沼耕治氏の二人を選びました。
革新懇の不要論を克服
世話人の中でも中心的な役割をはたした人たちは、準備段階の論議と実践経験で、社共間の共闘の経過をおもんばかっての革新懇の不要論もしくは慎重論を克服して結成総会を成功させましたが、共産党と協力しながら大衆運動を進めてきた団体の一部には、革新懇不要論は残っていました。
そうした意見は、安保破棄・諸要求貫徹宮城県実行委員会(安保実行委員会)の活動に熱心に取り組んできた人たちから出てきました。宮城の安保実行委員会は、平和・安保問題を中心に据えながら、公害問題、原発問題、県民生活要求などに恒常的に取り組み、参加団体を糾合して対県交渉を毎年行って、総括的な交渉には知事も必ず出席するという、他県には見られない実績を積み重ねてきていました。その安保実行委員会の中心的な役員から、同実行委員会は日米安保条約の破棄をはじめとして生活要求、憲法擁護という革新3目標を掲げて共闘の運動を続けてきているのだから、同じ目標を掲げた組織は屋上屋を重ねるようなものという意見が出されていました。革新懇の出発にあたって無視しえない意見でした。
こうした意見に対して、政党は「国民のための政治」実現のために政権をめざすもの、その政党を軸にした統一戦線もまた政権の樹立を目標にして運動するもので、要求実現が主目標の共闘組織の運動とは差異があることについて、学習会を開いて論議を深めました。その結果、安保実行委員会の事務局長、議長を務めてきた、宮城県高等学校教職員組合委員長の相沢博氏が屋上屋論を克服して、革新懇運動の熱心な推進者になりました。